プロフィール

ただ 安心して寛げる 居場所が欲しかった

アダルトチルドレン・愛着障害・共依存・HSP生きづらさMAXだった私の人生

見捨てられ不安から親のために寂しさ孤独を我慢 

嫉妬深く依存体質の夫のために栄養失調になるまで我慢して頑張る

育ち盛りの3人の子供達のために必死で働いて自分のことは後回し

与えられた仕事で成果をあげるため、認められるために頑張り続ける

常に自己犠牲で頑張り続け 心と体をすり減らしてきた心理カウンセラーの会沢静玲音(アイザワセレーネ)です。


プロフィールをご覧いただきありがとうございます。

あなたにはそんな遠回りをしないでほしいと思っています。

誰にでもできるシンプルな方法で、生きづらさを克服してあなたらしい幸せな人生を歩んでいただけたら嬉しいです。



心理カウンセリングやコーチングを受ける場合は,カウンセラーとの相性は大切です。

当カウンセリングルームでは、お悩みから抜け出していくために、またさらにその先の幸せな人生へと歩んでいけるように、二人三脚で同じ方向に向かって、一歩ずつ無理をせず進めてまいります。


只今初めての方にお試しカウンセリング受付中

安心して受けていただけるように、私の生い立ちなども下記に書いております。

興味のある方は、お読みになってみてください。

プロフィール

幼少時代  見捨てられ不安から、お利口さんのふりをして甘えられなくなった

3才の頃、母と近所のおばさんと3人で朝のお散歩に出かけました。
初めての道を通っているのがわかって、どこへ行くんだろうとワクワクしながら着いていきました。

知らない建物の中へ入っていき、突然そこにいたおばさんに引き渡されました
体を掴まれ、母に手を伸ばしたのについてきたおばさんに促されて、一度振り向いただけで帰って行ってしまいました。

保育園のお試し保育だったことを聴かされていなかった私は、いきなり置いて行かれたことで、捨てられると思って パニックになり、泣き叫んでも戻って来てくれなかった恐怖から、母の顔色を伺うようになりました。


4才になると父が病気になり入退院を繰り返す、貧乏生活が始まりました。

私がやっと保育園に慣れた頃、母の「お金が無い」というセリフを毎日聴くようになりました。

「辞めてもいいよ!」

母を喜ばせたくて言ってみました。

「本当にいいの?」

母の顔が明るくなりました!

お金がかかる保育園をやめて、1人で家で留守番をする毎日が始まりました。

実際に留守番をしてみると、1日がとても長くて、1人ぼっちが退屈でとても寂しくなって泣きたい気持ちが募っていきました。

当時は、子供向けのテレビ番組も今のようには沢山やっていなかったのです。

「お利口さんだったね。」


母に留守番を褒められたことで、あんなに抱きついて泣きたかったのに、涙が引っ込んでお利口さんの平気なふりをして、泣いて甘えることができなくなりました。

学生時代  孤独に過ごすうちにあがり症になる


小学生になった夏休み、父の転地療養のため家族で北海道から暖かい三重県に引越し、一戸建ての広い家から2DKのアパートで暮らすようになりました。

慣れない環境と聞き取れない方言に話すことが減っていきました。

1人で家に居るより安全だと思った母。

「授業が終わっても夕方の下校時間まで学校にいなさい」
そう言われ、同級生がみんなさっさと帰る中、私は誰もいない校庭でまた時間を潰して帰る孤独な毎日が日課になりました。

淋しい感情を押し込め、自分を誤魔化すようになり、家では明るく母を笑わせるお調子者になっていきました。


学校では、一斉に注目された途端に 頭が真っ白になって、体中が震え出し、言葉も震えて 笑われるようになりました。

恥ずかしさのあまり、人前に出るのが怖くなってしまった!

そんな自分が嫌でたまりませんでした。

認められたい、褒められたい、おもちゃが欲しい

父は「成績が良かったら、好きなものを買ってやる」と言ってくれました。

普段は欲しいおもちゃも我慢していたので、当時流行っていて友達みんなが持っていた「りかちゃんハウス」がすごく欲しかったんです。

父から認められたいのもあって勉強を頑張るようになりました。

しかし、実際に良い成績を取った時、


「そんなお金どこにあるの⁈」


と、母が父に食って掛かって口論になりました。


私は、身の置き場がなくなり悲しくなりました

頑張ったら褒められると思って、誇らしい気持ちで成績表を持って行ったのに、母を困らせ、父との喧嘩の元になり、りかちゃんハウスも買ってもらえないかもしれない・・・

「頑張っても結局私は母を困らせる存在」

そんな言葉が頭に浮かびました。


でも、父には認められたい。

父にまで見捨てられたら、私には存在価値がなくなってしまうから…

結局父が約束を守って、りかちゃんハウスを買ってくれました。

本当はすご~く嬉しかった!

だって本当に頑張ったから。

でも、母の顔色を伺って「喜び過ぎてはいけない」と
それからは本当に欲しい物ではなく、もう少し安い物を言うようになりました

ですので、未だに安物は抵抗なく買えるのに、「ちょっと高目かな⁈」と思う物は躊躇してしまいます^^;

思い込んだことが変換されて口癖になっていた

そんなことが何度かあって、頑張らないといけないけど 頑張りすぎて一番になってはいけないと思うようになっていきました。

「人並みは嫌だけど、一番になると 出る釘は打たれるっていうでしょ?

だから、中の上くらいが丁度いいのよ!」


高校生の頃には、そんな口ぐせが出来上がっていました。

そんな父が亡くなったことで、大学進学を諦めることになります。

悲しみもありましたが、「俺の目の黒い内は、お前を大学に行かせてやる」と言っていた父だったので、裏切られた気持ちで、何のために勉強してきたのかわからなくなりました。

社会人時代 失恋と母の過干渉から益々アダルトチルドレンの要素が強くなった

大勢の人の前で「気が利かない!」と母から言われたことが、恥ずかしくて頭から離れず、益々人の顔色を伺い 「人の気持ちを察して尽くさなければいけない」と緊張が強くなっていきました。


付き合った人の母親からは「こんな片親の子と付き合うなんて!」と泣かれ、ショックのあまり恋愛ができなくなってしまいました。


会社ではパワハラ上司に、みんなの前で見せしめ的に怒られ
恥ずかしさと情けなさから、頭が真っ白に…

すると、「そんなに真面目に聴いてることないよ!適当に他の事考えながら聞き流してたらその内終わるじゃん!」

「ほ~ら、終わったでしょ⁈」
そんな声が頭の中で聴こえたんです。
それをきっかけに、私は嫌なこと辛く感じる時は感情を切ってやり過ごすようになり、楽になったのを覚えています。

見合い結婚  依存体質の夫、子供との共依存の始まり 

 
恋愛が怖くなってしまった私は、一度お断りした遠距離の見合い相手から何度もアプローチされて
「望まれて結婚した方が幸せになる」と結局その人と結婚することに。

ゆっくり付き合う暇もなくあっという間に結婚。

6才も年上で、やっと頼れる人ができたと思いましたが、行ってみると古くてお風呂も無いアパートに、実は借金まであったことを知ります。

家を飛び出したものの知り合いもいない知らない土地。

お金が無い中、嫁入り支度をして送り出してくれた母を思うと
実家に帰ることもできず、相談する相手もいない私は

「自分の感情を殺して生きるしかない」

そう強く決心してアパートに戻ったんです。

嫉妬心と食欲は人一倍で

「働いて欲しくない」

「おかずはこれだけ?」

私が持っていったお金もあっという間に底を突いていきました。

私だけが栄養失調になりかけました。


自分の愛情を注げる子供に生きがいを求めるようになります。

結局は、自分も働いたりやり繰りしながら子供も3人になり、大変ではありましたが、少しずつ幸せを感じられるようになっていきました。

 

離婚へ  夫への殺意…「誰も守ってくれる人はいない!」

なんとかローンで家も買って、ギリギリでもやっと人並みの生活が始まった頃

「今日からあなたも社長!」

と言う踊り文句に惑わされた夫が、突然仕事を辞めてきました。


土地感もないのに、軽貨物の配達をするからと180万円もする軽トラの契約をして来てしまいました。

家のローン返済もあるのに、さらに借金を増やされ絶望に叩き落されました。

それでも3人の子供がいるので
子供たちを路頭に迷わすようなことだけはしないで!

新築の家を手放し、中古の家に引っ越して何とか生活を立て直そうと頑張っていた時でした。

2階のベランダに洗濯物を干し終わって階段を降りようとした時、お酒を飲んでいびきをかいて寝てる夫を見た瞬間、抑えきれない怒りが湧き出して、思わず殺意の衝動にかられていました!

「こいつさえいなければ…」


体が勝手に夫の方へ持っていかれそうになった時に、子供の声でハッと我に返ったんです!

「もう少しで殺人犯の子供にしてしまうところだった!!」

「なんて恐ろしいことを考えてしまったの!!」

そんな自分を責めながら、涙が流れてもう無理だと思いました。

私が、電話で離婚したいと母に言った時、


「帰って来られても住む場所がない。

お前さえ我慢すれば、子供達が路頭に迷うことはない。」

この状況でも母はそう言いました。

そこまで言うってことは、よほど辛かったんだね!

嘘でもいいからそう言って欲しかった!


私と子供達を守ってくれる人は誰もいないことを思い知ります。

離婚して誰にも頼らず、3人の子供と生きていく


「この家は俺の名義だ!」
そう言って譲らなかった夫を残して

当時中1の息子を筆頭に3人の子供達と身の回りの物だけをもって、2DKのハイツに引っ越しました。


初めて自分の居場所ができた気がしました。
大の字に寝ころんだ窓から青空が見えた時

「私のお城だ!」

あの時の解放感は、今でもハッキリと覚えています!

もう夫の顔色を見て過ごすのではなく、自分で決めて自分が頑張っていけばいい。

そう思うと、不安はもちろんいっぱいありましたが

「なんとかするしかない」

そう自分に言い聞かせ、何とかなる気がしたんです。


でも、片親にさせてしまった子供達への罪悪感は強く、実際に4人で生活していくためには、稼がなくてはいけません。

最初は、掛け持ちで平日も土日も働きました。

インセンティブで収入を上げるしかない

事務職ではとても生活していけないことから、接客販売で頑張ろうと、売るための勉強を始めました。

学生時代でも読んだことがないくらい、売るための本を買い漁って読むようになりました。

話し方セミナーにも出かけていきました。

人前であがり症が出てしまうのを何とかカバーして収入に繋げなければいけなかったからです。

高校しか出ていない私にとって、この時期の学びはとても楽しかったです。


しかし、勉強と仕事と子育てで、休みなく働くようになっていきました。


販売では認められるようになっていきましたが、食べ盛りの3人の子供たち、学費、家賃が重なり、経済的には余裕のない毎日でした。

そんな私を支えていたのは、「子供たちのために」という思いでした。

子供たちからは、「うちは、離婚してから裕福になった!」と言われました。

土日も家に居てあげられないので、せめて食べ盛りの子供たちが空腹で待っていることのないように、食べるものだけは冷蔵庫の中にいっぱい入れておいたからなんです。

結婚していた時は人一倍食べる夫もいて、本当にやりくりが大変だったので、それを思うと頑張れました。

空の巣症候群になる   ストレスから身体に異変 死ぬかもしれない…


そんな生活が何年も続きました。

その間にも、子供の不登校があったり、グレかけたり、引きこもりがあったり…

仕事で半年間の単身赴任にも赴きました。

本当にいろんなことがありました。

その度に、逃げずに向き合うことを意識してきました。

そして、ついに末っ子が地方の大学に進学、寮に入るため家を出ると身体に異変がおき始めました。

孤独を感じる毎日、やる気が出ない、家事がおっくうになって体が動かない。

それでも、学費のこともあり仕事を休むわけにはいかないと働き続けました。

すると、突然顔面神経麻痺で、顔半分が崩れたようになって動かなくなりました。
入院するように医師から強く勧められましたが、
「そんなことにかけられるお金はない」と、薬とマスクでなんとか乗り切りました。

今度は、胸の左側に痛みが出始めて、「死ぬかもしれない…」職場でそう感じるようになりました。

1時間半以上かかっていた勤務先を、40分位の近い所に変えてもらって、また何とか乗り切りました。

すると今度は、販売職なのに声が出なくなり、こればかりはどうしようもなく、ドクターストップで、やっと休業することに。
それでも、仕事に行けない自分には価値が無いと責めていました。

願いが叶った  子供たちの独立と結婚

末っ子も無事に大学を卒業すると、子供たちにそれぞれ好きな人ができて、パタパタと3人とも結婚しました。

私が子供たちに願っていたことは

①本当に好きな人と結婚してずっと幸せに暮らせること。
②好きなことは趣味でもいいので続けること。
③自分たちの力で、ちゃんと生活していけるようになること。

この3つでした!
お陰様で、子供たちへの願いは叶いました。

やっと肩の荷が下りました。

母の死 交通事故で交際解消  絶望感と苦しさでまた胸が痛み出す

そんなある日に認めて欲しかった母が亡くなりました。
そこから独りぼっちの悲しみが止まらなくなりました。
勝手に涙が溢れてくる日が続きます。


やっと少し落ち着いた頃、孤独感から婚活で出会った人と付き合い始めました。

一緒に住む家を探すようになった頃、相手が運転していた車で交通事故に遭い、私だけが足腰を痛めました。


仕事にも行けず、なかなか治らない私を負担に感じた相手から、交際の解消を言い渡されます。

絶望感から、苦しくて、夜も眠れなくなり、また胸が痛み出しました。

苦しさ・痛み・孤独感からの解放 誰かのためじゃなく自分のためにする喜び


今まで何があっても自分で乗り越えてきたつもりでしたが、自分の事となると1人ではどうにもできず苦しくて、1度カウンセリングを受けてみることにしました。


話は聴いてくれたのですが、アドバイスは特に無い傾聴タイプのカウンセリングでした。

その時は少し楽になった気がしたけれど、胸の痛みは取れないままでした。

これからのことを考えると、どうしても不安で苦しくて辛くて、初めて継続セッションをしてもらうことにしたんです。

月に一度のZoomセッションでしたが、次のセッションまでは、いつでもLINEで思ったことを吐き出せたんです。

マイナス感情に落ち込みかけても何を話しても寄り添ってくれて、支えてくれる人がいる安心感と日々の簡単なワークによって徐々に気持ちが前向きに変わっていきました。

すると、胸の痛みがとれて、苦しさ、辛さが消えていきました。

長年当たり前のようにやってきた、誰かのためではなく「自分のために」してあげることが楽しなりました。

すると、ずっとあった孤独感もなくなって

心が喜んでいるみたいに感じました。

こんな感覚は初めてでした。


1人で居るのが淋しくなくなって、今まで出来なかった事をして楽しめるように変わったんです。

この自分でもいい!


そう思えるようになっていきました。

もっと楽に人生を楽しめる方を増やしたい


その経験から私がしてもらったように、私も悩んでいる人に寄り添ったサポートがしたいと思い心理カウンセリングを学びました。


「この自分で生きていく!」


そう決めた時、初めて自分の本当の居場所に辿り着けました。


それが、心理カウンセラーというお仕事でした!

今まで人には 話したくなかったような私の人生が、無駄ではなかったと思えたんです。

私は、心理カウンセラーの勉強をするまで、自分がアダルトチルドレンとか愛着障害・HSPだとは
ハッキリ知らないまま、遠回りしてきました。


もっと早くに 心の扱い方を知っていたら、もっと早く 楽な生き方ができたのにと思いました


今の私は、好きな時だけ近くに住んでいる孫に会いに行ける気ままなおばあちゃんです。




しかし、以前の私のように知らずに、遠回りして苦しんでいる方も多いと思います。


そんな、生きづらさや、苦しさから解放されて、もっと楽に あなたの人生を楽しめる、お手伝をさせていただく事が、私の使命だと思っています。

・悪循環を断ち切る

・安心感と自信の土台を作る

・不安を一瞬で吹き飛ばす

・自然と行動できるようになる

・心の器を広げる

・安全な空間を作り出す

・トラウマ解消

・インナーチャイルドヒーリング

など、他にもたくさんのワークや様々な技法があります。



お1人お1人、お悩みもお悩みの深さも違うように、改善方法も異なります。


ですので、その中から あなたに合わせたワークや技法を組み合わせて、あなたのためのオリジナルセッションを行っていきます。


セッションは、クライアント様とカウンセラーとの共同作業です。

無理をせず、相談しながら同じ目標に向かって 一歩ずつ進めて参りましょう。



根本改善ができる心理カウンセリングスキルを使って、今度は私が寄り添いサポートをさせていただきます。

「自分の人生に幸せを感じて過ごしていきたい」そう思っていいんです。

無意識に、かけてしまったブロックを外して、幸せになる許可を自分に出しましょう。

人は、いくつからでも変われます。



あなたも、いつからでも変われます。



苦しさや、生きづらさは、自分の心の癖と、正しい心の扱い方をまず知ることで,

改善されていきます

そして、長年慣れ親しんできたけれど、大人になってもう不要になった心の癖を手放して、正しい自分の心の扱い方を使えるようになると、本当に楽に生きていけるのです。


1人で悩まず、まずは勇気を出して、お試し体験に申し込んでみてください。

一緒に、あなただけの心の取扱説明書を作って、軽やかな人生へと歩み出してみませんか?

せっかくの人生を楽しむことができますように、全力でサポートさせていただきます。

最後までお読みいただき ありがとうございました。